間違ってこの世に生まれてしまったのかもしれない

とにかく明るい詩を歌うしかない

モノ

私があなたを友達だと思って見ているときに、

あなたは私を筆箱か何かだと思って見ている。

 

その机の上にある、キラキラとした飾りと、プラスチックの鍵のついた筆箱か何かだと。あるいは、使い捨ての消しゴムか。

 

私があなたを友達だと思って見ているときに、

あなたは私を雪だるまか何かだと思って見ている。

写真をとるときに、一人より。横に何かあった方がいい。 

 

そんなのっていうのは、とっても悲しいことですね。

 

 

でも、私のことを親友だといってくれるあなただけは、

私のことを私だと思っている。

これから先、こんなに嬉しいことはないでしょうね。

半額

自分を安売りするなと言われるが、そんなことはどうでもいい。

今回はご飯の話だ。

 

帰り道、いつも夕飯の材料を買いに、スーパーに行く。

 

17時から18時ごろにお惣菜のコーナーを通ると、ちょうど10%引きのシールが貼られているところだ。やりくり上手の主婦の方が、目ざとく見つけて、貼った側から取って行く。すごいスピードで。そこには、家族の食卓を支えてみせるという気概がある。

19時になると、30%割引のシールがちらほら出てくる。店内で作っている煮物とかコロッケとかお弁当とか、大半のおかずが30%引きになる。

そうでないものは、夕方に作ったもので、これは明日までここに並ぶのだろう。

 

お寿司は、意外と頑張るが、それでも20時には半額だ。

ただし半額になる前に全部売れることも多い。お寿司は人気者なのだ。

本来なら、定価で売り買いするのが健全な姿だが、食品も廃棄するよりましということかもしれない。(でも、売り切れるくらいでちょうどいいのに、と私は思う)

 

だが、作ってしまったら、安売りしなければ売れないのだから仕方ない。

30%割引のシールを顔の上から貼って歩けば、お金が安ければ、内容なんかなんだっていいと思っている人が買ってくれる。

そうすれば、私だって、半額のお寿司が食べられるのだ。

クリスマス

今日がクリスマスじゃなくても、私の心にはジングルベルが鳴っている。

そういう時は、イヤホンを差して「主は来ませり」ということにしてしまう。

そして、出会った友達に持っているお菓子を配るんだ。

わけが分からないけれど、それでもその子は、優しい笑みを浮かべてくれる。

 

コンビニで2個セットになっているケーキを買って、1つ食べて、パックに入ったチキンを出してフライパンでこんがり焼いて食べる。次は、お待ちかね。しまってあったクリスマスツリー(25cmくらいの光ファイバーでできてるやつ) を出してきて、窓から出して埃を叩いて、そして机の上に飾るのだ。ツリーの電源を入れて、部屋を暗くして、点滅する淡い赤、青、緑を見ながら、残った1つのケーキを食べる。

そうすると、ジングルベルを鳴らしていた子供は、飽きたのか、もうどうでもよくなるのだ。ツリーの電源を消して、しばらくじっとしていると、ベルは鳴り止んでしまう。私は電気をつける。ケーキが乗っていたトレイの裏に貼ってある成分表の、カロリーと炭水化物の欄を見て、うえっと気持ちが悪くなるのだ。

不要

自分より優れている人や、重要な人がいれば、自分が不要であるという気持ちになる。

別に不要であるのは構わないが、不要であるなら、どうしてこの場にいなければならないのだろうと思えてくる。

 

名目は同窓会だが、1人の失恋話が聞きたくて集まった飲み会。

熟練バイトに混じった、不慣れなアルバイト、しかも今日でやめるのだ。

マイクを離さない彼が企画したカラオケ大会に参加する風邪ひき。

上層部だけが決定権を持っている会議。

 

明らかに不要な存在が、この世にはできてしまうことがある。

ひょいとつまんで、持ち上げて(屋根がないとすればだが)、外に放り出しても、一瞬ぎょっとするだけで、中の空気は変わらないだろう。すぐにまた、必要な人数だけで盛り上がるに違いない。

なのに、なぜか、その放り出された者は、胸の中に、秋の、日が沈む時のような冷たい風が吹くのだ。なんの問題もないはずなのに。自分だって、そこにいたくはないはずなのに。

自分が不要であるとしみじみ感じるというのは、すこし冷たいものなのだ。

 

部室

中学校の頃は、死にたい子たちが周りにたくさんいたような気がする。

 

部室は、周りから見たら教室の隅の箒がどうしても届かないところにある、塵溜まりみたいなところだ。見向きもされないところだ。しかし、そこが私たちの居場所なのだ。

トイレでの噂話や、嘘つきゲームもびっくりの心理戦と戦略に、疲れ果てた私たちの居場所なのだ。あそこは、校内で「生きるのがしんどい」「死にたい」と言っても許される唯一の場所だった。

 

その時、約束したことは、大人になってもみんなで何かを作ろう。ということだった。

あの子は声優になる、あの子は作曲家になる、あの子は漫画家になる。いわゆる創作系の部活だったのでみんなそんな夢があった。将来も、一緒に何かを作ろう。死にたいこどもが、もう1日生きていくために。私は、そう思っていた。

 

今じゃ、みんな離れ離れになった。あそこにあった死にたいは一過性の変声期みたいなものだったのだろうか。みんなの目標は変わっていった。家庭を持つとか、お金を稼ぐとかあるいは男の人にお金を貰うとか、そいういうことが、大切になった。

あの子のインスタからは、砂糖とクリームと水族館と鞄以外の情報は得られない。連絡を取ったら、見慣れない髪色の女性がいて。幸せそうだったので、私は嬉しかった。でも、もう会ってはいけないと思った。

 

中学を出て、専門学校に行ったあの子は、消息が不明だ。

恋人を追いかけて行ったあの子がどうなったかも。もう分からない。

 

いなくなっちゃった。

「死にたい」「それでもとりあえず今日だけは生きよう」そう言って笑い合う相手はもういない。不謹慎だから、大人だから「死にたい」なんて言ってはいけない

 

死にたい友達に、あの時何もできなかったから、だから私は夢を追い、そして少しずつ近づいている。積年の思いが実る様子は、輝かしいばかりじゃない。

 

もう、死にたいという子はいない。もう助け合う必要は無い。みんな、自分で救われたんだ。

あの部室には、もう私しかいない。私だけが、まだ幼稚な心で死にたいと思い、そして、だからこそまだ夢を捨てられずに追い続けている。

これからどこに行くのだろう。